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世界で活躍する同窓生からのメッセージ(敬称略)
渡邉 和正    (昭和56年卒)  インドネシア

イタリア時代-ロベルトバッジョと
イタリア時代-ロナルドと
 昭和56年3月朝日高校を卒業しました。

 高校在学中はサッカー部に所属し、当時の夢はサッカーの指導者になる事でした。しかし、在学中はサッカーに明け暮れてしまい、いつも成績はビリでした。
兎に角サッカーが好きで進路相談時に担任の須々木先生から「何で東京の大学なん?」と尋ねられ「国立競技場があるから」と意味不明な返事をした事を今でも覚えています。

 2年間の浪人を経て、何とか明治大学に入学できましたが、既にその時点でサッカー指導者の夢は諦めていたと思います。就職活動時もあまり真剣に将来を考えておらず、当時興味のあったアパレル業界を目指そうか?とも考えておりました。

しかし、ゼミのOB会で大手アパレルメーカーに就職された先輩から「アパレルはきついぞ」と聞かされアパレルも諦め、結局日経新聞の株式欄で目にした事のあった「川島織物」という京都の会社に就職する事になりました。大学時代のゼミは「産業構造論」で、繊維産業はその当時既に「斜陽産業」と言われていたにも関わらずでした。

 指導者の夢は捨てていましたがサッカーは相変わらず大好きで、大学の卒業旅行は当時流行のバックパッカー1人旅で欧州を選択しました。英国・ドイツ・イタリアでサッカー観戦を行い、一番楽しかったイタリアが忘れられず、就職先の川島織物には運よくミラノオフィスがあった為、入社1年目から毎年自己申告書に「自己啓発として英語・イタリア語を勉強中」 と嘘の申告をしておりました。当時私が担当していたのはインテリア生地の営業で、横浜営業所⇒千葉営業所に配属されカーテン等の販促活動を行っておりました。

入社7年目に何故かミラノ事務所へ赴任できることが決まり、人生捨てたものではない。川島織物に感謝しなければと考える様になりました。

 ミラノ事務所駐在(1993年〜2001年)の7年間は地元ACミランのシーズンチケットを購入し、サンシーロスタジアムでの観戦、毎週金曜日の夜は日本人駐在員チームVSイタリア人チームでフットサルを楽しんでいました。イタリア人には、ど素人でも兎に角「俺が点を決める!」という気概をいつも感じていました。日本人の「確実に得点できる迄パスを繋ぐ」的な発想とは違うなと感じていました。

ミラノ時代はサッカーとイタリア料理を堪能でき、本当に楽しい7年間を過ごすことが出来ました。
2000年頃から会社を取り巻く環境が悪化したせいもあり、ミラノ事務所を閉鎖して日本帰国を余儀なくされました。

 2001年4月に帰任し、新たに配属されたのが自動車事業部・海外営業部でした。
それまでのインテリアと違い、自動車メーカーのデザイナーの要望に従いオーダーメイドの生地を開発・生産・販売するのが私の仕事でした。 自動車メーカーのデザイナーの要望は非常に細かく、その時初めて「同じ黒色でも赤味の強い黒、黄色味の強い黒」等々がある事を知りました。

 私の担当は豪州市場向けの自動車シート生地開発・販売でした。当時はメルボルンの協力会社を通じて豪州にあったトヨタ・三菱・GMホールデン・FORD向けのシート生地の開発営業を担当していました。
 その後販売台数が年間百万台という小さな豪州市場からは前述4社が全て撤退してしまった為、北米BIG-3ビジネス獲得という目標を掲げ2008年にデトロイト事務所を開設し駐在する事になりました。
遅まきながら2007年に長女が誕生しその9月に家内・長女と3人でデトロイトでの生活を始めたのも束の間リーマンショックの煽りを受け、 デトロイト事務所を閉鎖し結局2009年4月1日のエイプリールフールフライトで帰任する事になりました。 人生2度目の海外事務所閉鎖でした。

 2009年帰国後は日本から北米市場を担当していましたが、その年の後半に今度は上海会社より「来ないか?」とのオファーがありました。
 丁度2010年に川島織物が自動車事業から撤退する事となり、同業他社のトヨタ紡織と龍村美術工芸織物(自動車部門)が3社統合し 現在のTBカワシマ㈱という会社に転属する事になりました。現在は自動車シートメーカーのトヨタ紡織の100%子会社となっています。  上海には2005年頃から何度か出張していた為、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの中国で仕事をしたいと真剣に考えており本当に良いタイミングで上海駐在を経験する事が出来ました。

 上海には2010年10月から2018年3月までの7年半駐在する事が出来き、色々な意味で自分を磨き上げる事が出来たと思います。 海外で仕事をする為には、「①その地の人々をリスペクトする事」「②確りとした自分の意見を持ちそれをローカルスタッフに伝える事」 この2点が大切である事を学びました。

 上海駐在からは単身赴任となりましたが、家族も休みを利用しては中国旅行を楽しんでいました。
四川にある九寨溝旅行に出かけた当日、当地で大地震が発生し結局四川省成都までしかたどり着けず 最近上野動物園から中国に里帰りした「香香=シャンシャン」でも皆さん聞かれた事があるパンダ基地を楽しむだけとなりました。 その他にも中国国内にある世界遺産を数々旅行する事ができたのも海外駐在員としての利点の一つかなと思います。
 2018年4月に帰任し日本国内でダイハツ関係の仕事をしておりましたが、2020年末頃インドネシア駐在の話をもらいました。ほぼ即答で承諾しました。 (実はその1年前にインド駐在の話しがありましたが、当時の本社社長に丁重に断っていました) コロナの影響もあり2021年10月より現在のインドネシアジャワ島西部のバンドンに駐在する事になりました。 バンドンの大手インテリア生地メーカーであるATEJAという会社とAteja Kawashima Autotexという会社を設立しており 日系自動車OEM向けにシート生地を製造販売しています。

 インドネシアの人口は日本の約2倍、国土は日本の約5倍の島国です。 人口・国土を考えてもインドネシアにはまだまだ自動車購買力のポテンシャルがあると感じています。 インドネシア市場では未だに約95%程度を日本車が占めています。
 ガソリンエンジンからバッテリーEVへの転換期=100年に一度の変革期に直面しており。 その変革期に内装生地メーカーとして何をしなければならないのか? どうやってこの時代を生き延びていくのか? SDG'sの観点からも真剣に何を伸ばして・何を捨てるのか? 等々日本の本社と一緒に考え・現地日系自動車OEMに提案している状況です。

 強いものが生き延びるのでは無く、その時代を読み柔軟に変化できるものが生き延びれると考えます。 皆さんも時代の変化を敏感に受け取り、どうすればその変化に対応できるかを日々考えて生活して欲しいです。
 2023年3月で還暦を迎え、定年退職後も現地バンドンで仕事を続けさせてもらっています。 最低でも65歳までは現役バリバリで仕事を続ける意気込みです。

 サラリーマン人生の約半分をイタリア・北米・中国・インドネシアで過ごしています。 英語が苦手で2浪した自分が、何とか身振り手振りで海外の人達と仕事をしています。 何事にも前向きに取り組み、トラブルがあれば進んで解決するように取り組む。公私に渡りトラブル好きな私です。
 私がインドネシアのバンドンにいた事が、何年か後に「渡邉よくやってたよな」とポジティブな評価がもらえる事を 期待して、渡邉の存在証明が出来ればと考えています。

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