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世界で活躍する同窓生からのメッセージ(敬称略)
久山(坪田)房子 (昭和41年卒) ウルグアイ モンテビデオ

 

校 庭 か ら 公 邸 へ

マイフェアレディ イライザの気分
ウルグアイの典型的風景

 退職した夫がある日「モンテビデオに住むよ!」と言ったときのショックは忘れられない。それも今までの生活からは想像もしてみなかった南米ウルグアイの「大使」として。
夫はもともと外務省ではなく総理府、後の総務省の公務員であった。35年前、新婚のときのアメリカ留学以来の外国生活である。

 晴天の霹靂とはこのことで、かくして私は自動的に「大使夫人」となった。
そしてこの立場は暗黙の了解のごとく、いやおうなく私にかなり重要な任務を課してきた。赴任国での2年間、大使公邸の内外で経験し見聞きし、感じたことを母校のホームページで率直に語りたいと思う。

 30年近く前から細々と東京の官舎の一部屋で始まった「絵画造形教室」はこの時、まさに佳境で、生徒も徐々に増え年ごとの教室展も盛況を極めていた。何よりハワイ大学でスクールカウンセラーのマスターを取って帰国したばかりの次女が参画して、厚みを持った新しい指導体制に夢を膨らませていた。
 又、その年の暮れ、初めて銀座の画廊「すどう美術館」を借り切って開催した個展で発表した新技法による抽象作品は自分なりにかなりな手ごたえを感じていた。そしてうれしいことに多くの友人、知らない外国人までもが作品を買ってくれたのだった。
「自分の可能性を試してみたい!やるわ!わたし・・・」とひそかに心に期していた。

 モンテビデオとは、南米アルゼンチンとブラジルにはさまれた大河、ラプラタ河の東にある小国ウルグアイの首都である。
ウルグアイは白人が約90%を占めるスペイン語の国である。人口は350万、国土は日本の約半分だけれど、ほとんどが草原の牧畜の国である。気候風土は年中おだやかでいつも風が吹き渡り、果てしなく続く草原が季節ごと色合いを変え、空気が輝くようなところである。おそらく地球上で一番住みやすい環境ではないだろうか。
 日本から一番遠いこの国で「在ウルグアイ日本国特命全権大使夫人」としての想像もしなかった準備が始まった。

 「朝日高校の校庭」で初デートをした人と「大使公邸」へ、人生はキョーテエ、コーテエ・・・なんて言ってはおれず、さっそくスペイン語の特訓。
 かつてのクラスメートは覚えているかしら?英語の授業ではかなり創作的、いいかげんな訳をして大笑いされたけど、本人は必死の苦肉の策。「ドンキー」を「ドンキホーテ」と訳したときは教室は爆笑の渦だった。先生が「君ねえ・・・・」と泣き笑いだった。40年以上過ぎた今でも時々悪夢、忘れてないからね!
 それまでの人生で、スペイン語はまったく関係なく、興味もなく、降った湧いた災難。それでも国家権力はすごい。外務省の一室に週3回4時間も監禁して、いやおうなく老齢間近の脳細胞に動詞の活用、冠詞の使い方、名詞の変化などを叩き込む。素敵なスペイン語での挨拶の仕方は大使夫人には必須と脅す。「ムーチョグスト、エンカンターダ、コノセルラ・・」舌をかみそうな言葉を丸呑みしていく。帰りの東横線の中では吐き気さえする。その年最強の花粉症が追い討ちをかけ、沿線を桜が舞っていた。
 それと並行して退職なった官舎の引き払いに伴う引越しと、任国に運ぶ荷物の用意。シルクのドレスや紋付の色留袖それに伴うアクセサリーの数々。はじめてデパートの特選売り場、宝石屋のカウンターに座った。引越し準備と体調不良でバリバリになった指先にダイヤも真珠も困惑していた。家具、食器、寝具などは公邸の備品があるので不要とのこと。
今までの官舎暮らしで使っていた、まだ十分使える思い出の詰まった家具を断腸の思いで処分した。今の日本の現状においては哀しくも究極の選択だった。かの国に暮らして、日本のそのやり方はやはりおかしいと強く思った。
 人の心や思いより、物やお金や時間が優先する「合理的」というクリーンで便利な国から出国したのは4月の終わり。春たけなわの日本であった。

大使夫人は老舗の女将
ウルグアイ日本大使公邸

 35時間のフライトの後、ウルグアイの国際空港からユーカリ林を抜けてわずか10分、壮大な高級住宅の連なる一角、ポール高く国旗はためく「日本国大使公邸」に着く。ほぼ1ブロック、およそ100メートル四方の中は一面芝生と疎林である。その中にたたずむ石造り2階建ての屋敷は築70年とかで、風景にしっくり溶け込んでいた。
 今日からこの屋敷の女主人として大勢の職員を仕切って、大使の意に沿った外交の一端と社交をこなしていくのだと思うと、緊張より先にスペイン語のお粗末さも棚に上げてわくわくと興奮している私がいた。元来がノー天気な性分である。

 多い時には週4回、少ない時でも1回はあるオフィシャルな「設宴」という名の食事会、お招きするお客の使用言語を考慮しながらも身分の序列、男女の割り振りを考えての座席表作りには毎回頭を痛めた。又お出しする料理も好みを考え、重複を避ける献立作りも重要な仕事。天皇誕生日には約400人の重要なお客を招いて立食のレセプションでもてなす。又新年会は150人ほどの主に日系人を招いておせちを作る。
 元来肉食の国、刺身に出来るような魚はめったに手に入らない。ごぼうやレンコンは皆無である。公邸料理人はときどき冗談ともつかないで「タイシ!今日はリョーシになってラプラタ河で新鮮なお魚を釣ってきてください!」また、ペルーやサンパウロに行ったときには、泥付きごぼうを10キロとか頼まれ、スーツケースに忍ばせて運んできた。こうして苦労して作った「筑前煮」や「お刺身」は故郷を遠く離れて暮す1世日系人が感動していた。どんなにお金を出してもちゃんとした日本食は国のどこにもない。しそ、にら、三つ葉、ねぎ、春菊などは花壇で丹精込め育てた。

 公邸の女主人としての重要な仕事の一つに「いけばな」がある。大きな玄関ホールにウエルカムフラワーとしてのいけばな、ダイニングテーブルにはテーブルフラワーのアレンジメント、壁際には日本風な活け花、トイレにも何個かのちいさなフラワーアレンジ。
 昼過ぎに花市場に行ってその日の雰囲気に合わせた花をメイドと一緒に行って、見繕って買ってくる。スペイン語にだんだん慣れてくると、自分で車を運転して行き、そこの店員と巨大な冷蔵室に入って「寒い寒い」と言いながらお花を物色するのは楽しい仕事になった。それを持って帰って整え、飾り付けるのにエネルギーを費やしてしまってはいけない。本番はその後、お客を気持ちよくもてなし、良い気分にして、交渉を優位に進める?まではいかなくても「好印象」を持ってもらうことは、大使ともども最重要課題である。

 公邸には国家予算で買った日本画の名だたる作家の作品がずらりとかけてある。若くから絵画に親しんだ私は、どの作家も名前だけはよく知る方々ではあるけれど、もはや心ときめく作品ではない。通り一遍な説明は出来るが情熱は持てない。そんなことを我が伴侶に言ったら、「じゃあ自分の作品に架け替えたら?」「えっ?!いいの!!」と翌日、大観画伯の富士山以外はすべて架け替えさせていただきました。
 それからの説宴やパーティでの私の下手なスペイン語は水を得た魚・・・・堰を切ったように・・・??!!
自分の作品の飾ってあるダイニングルームやサロンですから得意満面。それを「だし」にして大いに友好を深めていったように思っていますが、「夫人はいい気なもんね・・・」と思われたかもしれません。でも、どのパーティでもお客はなかなか腰を上げず、深夜に及ぶこともしばしば。
 お客を玄関の外にお送りしてほっとして見上げた空には満天の星が輝き、「あれが南十字星!」と毎回同じことを夫婦で言いあっていました。
 結婚して35年、同じ目的を同じ心を持ってなした仕事の充実感は新鮮そのもの。外国にいるだけに「二人」を強く感じたのかもしれません。

いいから買ったのです
個展会場にて

 そんなある日、私の作品が絵画好きのある夫妻の目に留まり、「フサコ、この作品をこの国の人たちに見せてあげて!」ということになり、国際的保養地プンタデルエステのヨットクラブで個展を開催することに。今にして思うとこれは友好的な慈善事業ではなく、彼らのビジネスとして始まったのだと思う。
 純然たる西洋絵画ではなく和紙を使った抽象画は彼らには新鮮で目新しいものだったから売れる!と思ったのかもしれません。
 何度かのインタビューとTV出演、新聞掲載、立派なカタログなどを作って準備万端。生の器楽演奏とご馳走の派手なオープニングパーティで名士や外国のお金持ちを招待して盛り上げた。その度にお金がどんどん出て行った。結局その場では思ったほど絵は売れず、名前だけが有名になった。それは今後のウルグアイ国内の活動では大いに意味を持った。どこに出かけても「芸術家である大使夫人」として一目おかれたように思う。

 この展覧会直前に、ヨーロッパの有名銀行がコンペで私の作品を指名して言い値で買い取るということがあった。大きな作品2点がモンテビデオの一等地に立つ高層ビル27階の特別な金融オフィスに飾られるという名誉である。この展覧会は収支は差し引きゼロだったけれど、結果的には素晴しい思い出となった。後日そのオフィスに絵を購入した支配人を訪ねて聞いた「まったく無名な私の作品をどうして買ってくれたのですか?」と。「どうしてそんなことを聞くのですか?いいから買ったのです。」と憮然とした。日本とは違う。日本人は作品の良し悪し、好き嫌いではなくブランドで買う。名のある画家であるかどうかが大事。またそれと同時に間に立ったウルグアイ人のしたたかな商魂を肌身で知った貴重な経験だった。


私の分も引き受けた無言の天使たち
ベンチを彫る

 絵といえば、モンテビデオの公邸の近くに「自閉症児」のための小さな学校がある。
 それは日本から「生活療法」という独特の教育手法を取り入れて大きな成果を上げて注目されている学校である。そこから美術教育をして欲しいという要請が来た。私は自分が描くだけではなく、30年近く東京や沖縄で子供たちに絵と造形を教えてきたが、「障害者」ははじめて、まして「自閉症児」は見たこともない。
 気軽に引き受けて行って見ると、目のすわった無表情な子供たちが取り囲むように挨拶してきた。この国では「ベソ」といって、女性や子供たちは頬と頬をくっつけあってチュッと音を出すのが挨拶である。子供といっても上は22歳、毛むくじゃらの青年もいる。一筋縄ではいかない予想。毎回材料と手法を変えてオートマティックな方法で絵画表現させる。この方法はかなり受けて「よろこんでいる!」と周りの先生達は喜ぶのだけれど・・・
 そんなある日、大きなベンチを作ることになった。それに葡萄の彫刻を浮き彫りし、着色する。ワインの名産地のこの国は葡萄は身近な木であるが、彼らにそれをスケッチさせることは不可能。見て描くなどはできる相談ではない。興味を引く仕掛けを考えて葡萄の大きな木を再現。それに小鳥を配して作品は3ヶ月以上かかって完成。大きな宝物となった。この前で子供たちと抱き合って何度も写真を撮る。彼らの目が「セニョーラ、グラシャス!」―オクサマ、アリガトウ―と絶対言っていた!はっきり感じた瞬間だった。
 後日、日本から公邸を訪ねてきてくれた朝日高の先輩がこの作品にとても感動して買いあげてくれた。現品は持ち帰らず、現在彼のネームプレートを付けて学校に保存されている。そしてそのお金で次の作品の材料を沢山買うことが出来た。うれしくも誇り高い出来事である。

 半年にわたり彼らを身近に指導し感動を分け合ったこの経験を、何かの形で発表できたらという思いがした。この「生活療法」という日本の文化と生活習慣に基盤を置いた指導方法が下地にあればこそ成果をみた私の絵画造形教育である。こういう形で「日本」を理解してもらうチャンスでもある。それは半ば日本大使夫人の義務にも似た思いがした。
公邸の大広間を片付けて、大きなスクリーンにビデオでベンチの制作風景を映し、周りの壁に彼らの作品を展示、又日頃から授業の一環で手づくりしているクッキー、ピザ生地、ケールジュースなどを彼ら自身が会場に来て直接売る。無口だけれどとても紳士的に振舞う自閉症青年達に各国大使夫人たちは息をのんだようで、中には感動のあまり涙を浮かべて私に抱きついてきた夫人もいた。
 その後、ブラジル、サンパウロにも学校を作ることになって、私はサンパウロにも何度か出かけて行った。それがご縁で今もサンパウロとも親しいお付き合いが続いている。まもなくブラジル移民100周年。サンパウロ日系社会は、新学校を用意してこの教育を根付かせる努力を始めている。移民と言う苦労の上に障害者という言葉に尽くせぬ苦労を重ねている同胞のためにも、是非成功させたい事業である。
 ちなみに自閉症児は1000人に3人から5人の出現、誰の家庭に生まれてきても不思議ではない。「自分の子供の分をこの子供たちが背負ってきてくれたんだ。」と言っていたある老日本人に初めて出会ったのは大使公邸の庭だった。この言葉が私を行動させた大きな力になったことは言うまでもない。


ODAという癖になるプレゼント
路上の民族ダンス

 「夫人が行っても旅費も経費も出ませんよ。」と大使館員某氏が言う。「いいから付いて来い。君が一緒だと交流にふくらみが出る。」との夫のお言葉に乗せられて、大使の地方視察にはほとんど一緒に行った。
 モンテビデオを一歩出るとそこはたうたうような草の海である。見渡す限りの草原が雲の果てまで続く。四季を通じてその色合いは変化し、雄大な風景の中で牛が羊が群れをなして草を食む。歴史ある名所旧跡はないが、この風景は文句なく人の心を開放する。雲が飛び、小鳥や渡り鳥の大群が地平線を目指す。今では忘れえぬ愛しい風景である。

 国内19県の視察は車でこんな風景を毎日数百キロも行く。ほとんどは「草の根無償援助=ODA」のための署名とその結果を見に行くというものだった。日本からはかなりのお金がこうして発展途上国にもたらされている。大使夫妻がこうした席に行くと相手方は大歓迎である。彼らなりの素朴で心温まる工夫を凝らして歓迎してくれる。
 ある時、いつもの市内一周パレードと路上の民族ダンス見物の後のランチで、横に座った県庁職員の女性は言った。「日本って本当に素晴しい国!文化と歴史はもとより、国民は親切で教育水準も高く・・・でも、年間3万人も自殺者がいるんですって?」「・・・・・・・」「ところで夫人から大使に頼んでくださらないかしら?次は移動巡回医療車を寄付してくださるように。」その言葉を聞いた時、すぐさま席を蹴って帰りたかった。「あなた達にあげているお金はそういう人達の納めた税金です。」と大声で叫んで。

 私は見た!昼前のパレードの時、マテ茶を片手に粗末な戸口にたたずんで私たちをうつろな目をして見ている多くの壮年の男達が居たことを。何もせずただ日本からの援助を待っている。そしてダンスの揃いの衣装はこの日のための特別製で、日本国旗その色に合わせて赤と白。
 資金援助をするということだけではいけない。彼ら自身が労働してお金を得る、そのための方策を援助しなければとつくづく感じた。こうした視察が私を目覚めさせていった。

 そのほかにもウルグアイを起点にした南米各地への私的な旅。作品を創造する大きな原動力は旅から得ることは多い。想像を絶する壮大な自然、そこで出合った魅力的な人々の話は尽きない。そこから多くの作品が泉のように生まれた。
 この話は又の機会に譲りたいと思う。

 そして今年5月役目を終えて懐かしい故郷に戻った。35年ぶりの帰郷である。
年老いた両親は今か今かと帰国を待ちわび、相好を崩して迎えてくれた。
退職後の夫は、もはややるだけのことはやったと、好きな語学や楽器の練習、大きな旅の計画に胸を弾ませ、再就職の誘いも跳ね飛ばした。
「岡山がこんなにいいところだったとは!」が口癖で、変わってしまった故郷で「今浦島」のように毎日を楽しんでいる。
 そんなある日、夫の朝日高の友人を通して岡山の現代画廊が私のために「ラテンアメリカの風」展を企画してくれ、帰国後初の個展を岡山で開催することになった。懐かしい多くの顔に出会えるのは胸弾むことである。
 
くやまふさこ展「ラテンアメリカの風」
 期日 2007年11月30日(金)〜12月9日(日) 3日休廊
 場所 ガレリア プント 
   岡山市表町1−4−61 2F (丸善表町店向かい)
   電話・FAX 086−224−0376

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「ラプラタのほとり」 arteF1019.exblog.jp/

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