● ワールドリレー ●

世界で活躍する同窓生からのメッセージ(敬称略)

永田 武(昭和56年卒)  タイ在住


私と東南アジア


最初インドネシア赴任。現在はタイへ

 

 

エメラルド寺院横の王宮

 昭和60年に大学を卒業し伊藤忠商事に入社して以来ずっと木材関連に従事しております。入社後約1ヶ月の研修を終えて木材本部に配属された訳ですが、当時2つの部に分かれており、北米材の扱いを中心としたどちらかというと白人相手のスマートな商売(と当時は思っていた)をしている部とフィリピン・インドネシア・マレーシア・ソロモン・PNG・アフリカ等の熱帯雨林からの原木・製品を扱う部があり、当時まだ若かった自分はアタッシュケースを片手に颯爽と歩く商社マンのイメージできっと北米材と思っていたら見事に期待を裏切られ南洋材部隊への配属でした。

 周りを見渡すと北米相手の部はなんとなく紳士然とした先輩が多く流暢な英語を操っていましたが、南洋材部隊は見るからに南洋材然としておりよく言えば個性派とも言えますが浅黒い肌をした強面の諸先輩方が今まで聞いた事もない訳のわからぬ言葉(いずれ自分が駐在する事になるインドネシア語だった)を大声で張り上げ“ガチャン”と乱暴に電話を置くのを見てヤバイ所に配属されてしまった・・・と思ったものでした

 そんな私も恐い恐い先輩方からの日々のお仕置きにも徐々に慣れ、当初テレックス打電係りから始まった下働きも徐々に貿易実務・経理受け渡し関連業務をやらされるようになり、5年目にそんな自分の仕事を更に下請けに出せる後輩も配属されてきて、毎晩遅くまで滅私奉公的に働かされた日々からも漸く開放され、なんとなく仕事にも心にも余裕が出てきてヤレヤレと思っていた矢先に「インドネシアのジャカルタ駐在を命ず」という辞令を渡されてしまい、バタバタと後輩への引継ぎで海外赴任日までまた忙しくなりました。

 赴任前にインドネシア語の本を渡され勉強しておけと言われていましたが日々の業務やら引継ぎで忙しくなかなか手につかず、切羽詰ったらなんとかなるだろう的な半ばどうでもなれと開き直ったまま赴任の当日になってしまいました。成田からジャカルタ迄ガルーダ航空の7〜8時間フライトの中で「ヤバイ! 1〜10迄の数字と挨拶言葉ぐらい覚えとかないと・・・」と思い参考書を広げ サトゥ(1)、ドゥア(2)、ティガ(3)・・・とまず数字を呪文を唱えるが如く必死になって覚えようとしたのですが、赴任前日迄残業した挙句、朝方まで同僚からの容赦ない酒攻め壮行会遭ったお陰で飛行機の心地よい振動で夢の世界へいざなわれ、結局数字の1から10すら完璧に覚える事もなくジャカルタ・スカルノハッタ空港に降り立つ事になったのでした。

 そんなこんなで駐在したジャカルタも3ヶ月ぐらい過ぎると日常会話もなんとかこなせる様になってくるものです。特にインドネシア語は母音を中心とした発音をする言語でカタカナに置き換え易く日本人の耳に理解しやすいという事もあるのでしょう。また商売上、カリマンタン島(ボルネオ島)やスマトラ島に1ヶ月の半分ぐらいは出張するのですが、田舎に行くとインドネシア語以外は全く通じませんし、木材製品(合板=ベニヤ板)の買い付け、検品、出荷と工場に付きっ切りになりますのでやむにやまれず体で覚えていく感じでした。私のインドネシア駐在期間は89年11月から93年の年末迄でしたので、今から思えばスハルト政権の最後の一番安定していた時期でした。スハルト一族への利権の集中に対する批判が国民の間で騒がれていましたが経済が安定していた事もあり、昨今の様な政情不安やテロの心配等も殆どありませんでした。お陰でバリ島やプラオスリブの島々等のマリンリゾートや世界三大仏教寺院の一つであるボロブドゥール寺院も日本からのお客さんを連れて添乗員さながら何度も行く機会があり公私共々満喫する事ができた4年間でした。


そして帰国

 日本への帰国後は扱い品目を従来の合板から木質ボードに広げる事となりました。環境問題の高まりから熱帯雨林の伐採を制限する様になり商社もそれに対応し環境に優しく持続的経営の可能な植林木を原材料にした木質ボード(MDFやパーチクルボード)を扱う事にした訳です。これらの製品は木材を細かいチップもしくは更にファイバーにして接着剤で熱圧したボードで主に家具や住宅の内装材に使われています。植林は紙パルプ業界、木材業界向けに世界中で行われており特に木質ボードに適している松系の植林はオセアニア・南米・地中海近辺など各地にあり、私の行動範囲も従来のインドネシアからチリ・オーストラリア・イタリアへと拡大していきました。同じ樹種の植林木でも地域により植生が異なりボードの品質も違ってきますので、それぞれの特徴を生かしたボードを用途に応じて使い分ける必要がありました。


今度はタイへ

 木質ボード業界での日本を基点とした仕事も8年になりそろそろ2回目の海外駐在の時期となった訳ですが、なんとなく次はタイだという事が読めていました。というのも従来の輸入販売という形から木材部でタイでのパーチクルボードの事業経営に乗り出していたからです。日本向けに学童デスクやゴム材のフロアーを製造していた製材加工業者と長年の商売での付き合いがあったのですが、数年前からこの華僑と組んでパーチクルボードの合弁工場を立ち上げていました。原材料はゴムの植林木の丸太及びそれを製材した時にでる端材ですので100%リサイクルでまさしく環境に優しい商品です。97年のアジア経済危機を乗り越え2000年ぐらいからタイ国内や近隣諸国でボード需要が急激に伸びてきておりそれに対応しておりました。

 

プラント外観

勤務先のプラント(プレスから出てくるボード)


 2001年末に日本側の代表として赴任する事となったのですが場所はタイ南部のスラタニというところで、リゾート地として有名なサムイ島の対岸にあたるところです。ゴムの植林はタイ、インドネシア、マレーシアの3ヶ国で約70%を占めていますがタイでは南部に集中しており原材料の確保の観点から最適地という事でスラタニに工場を建設しました。今は仕事の関係で月の20日をスラタニで10日をバンコクもしくは海外出張という日々を送っています。赴任当時はタイ語で予想以上に苦労をしました。先に書きました様にインドネシア語は比較的日本人の耳に入りやすい言語ですのでそれ程苦労もなく覚えることができましたが、その後日本に戻り商売の中心が英語に移り、別に英語が得意でもなんでもなかったのでヤレヤレと思いなら一から英語を勉強し直したようなものでやっと英語にも慣れ安心していたのですが、今度はタイ語です。然しながらタイ語はホントに難しい。先ずあの文字を見た瞬間「こりゃアカン!」というのが第一印象でした。

 

スラタニの繁華街

バンコクの町並み


 タイ語は歴史的にも地政学的にも周辺諸国の大きな影響を受けていますが、難しい事はガイドブックなり専門書に任せるとして、ハショッテ簡単に言えば、タイは13世紀頃にアンコール・トムに都をおいたクメール王国の支配下でしたが、その勢力が弱まった時にタイ北部にスコータイ王国というタイ族による仏教国を建設しました。その際クメール文字を基にして新しい自国のスコータイ文字を作り、これが現在のタイ語の母体となっています。その後14世紀になるとアユタヤ王朝が興り長く繁栄しますが16世紀になるとポルトガル人や中国人、日本人の来航もあり商業都市として栄えます。一方でビルマとの戦争が幾度となく行われていました。

 日本の歴史の教科書に出てくる山田長政が活躍したのもこの頃です。その後ビルマ軍に破れましたが、難を逃れたタクシン将軍がトンブリ王朝を開き、その後バンコクに都を移したチャックリー王朝が現在に続いています。その間文化的には近隣諸国から大きな影響を受け、小乗仏教やバラモン教と共にインドやクメールから入って来たパーリ語やサンスクリット語も大きく混ざり合って現在のタイ語となっています。

 母音だけでも9種、それぞれに長母音、短母音の区別がある為、合計18種類の母音があり、基本的に“あいうえお”の5つしか母音のない日本人には聞き取り/発音とも難しく、これがタイ語を覚える際の最初の大きな障壁となります。その上に子音が21種類程度あり、中国語の様に4つの声調までありますので、真面目に語学をマスターしよう等という発想は40歳を目前にして頭の固くなりつつある私にはハナからありませんでした。まぁ「習うより慣れよ」とはよく言ったもので、仕事は英語で日常生活は超限られたボキャブラリーを駆使しながら何とかやっていこうと誓うと何とかなるものです。ここは「微笑みの国、タイ」なのです。タイ語が旨くしゃべれなくても笑顔で受け入れてくれるものです。

 タイに駐在して早いもので2年半が経ち、その間好調なアジア景気にも支えられ仕事の方は何とか順調にいっていますので最近多少の心のゆとりも出てきて休みを利用していろんな所へ出かけて遊ぶ機会も増えてきました。

 

南タイ ジェームズボンド島

スラタニを流れるダビ川のほとり

タイの文化と食べ物(雑感)

 先ず、食い物が旨い、何を食っても旨いというのが海外にいて一番嬉しいことです。世界3大スープの一つであるトムヤンクンを初めとしていわゆるタイメシは非常に日本人の口に合います。辛さは一般的に南部に行く程辛くなり傾向にありますが好みに合わせて調整してくれます。

 また世界中からの投資が増えているだけあってバンコクに限れば日本以上に世界各国のレストランがひしめき合っています。意外と多いのがイタメシ。本場イタリア人シェフによるイタメシ屋の数の多さは東京の比ではありません。その他、フレンチ、スペイン、ドイツ、スイスの欧州の各レストランから中華、ベトナム、ミャンマー、インドや中近東料理までその日の気分に合わせて何でも楽しめます。物価が安い事もあって格安の店からリーズナブル、高級店まで選択の幅があるのも嬉しいところです。

 和食に至るともう日本そのものです。特に私の場合は和食に対するコダワリはあまりない方なのですが、海外に出ると和食(日本食)はかなり高級で欧米でもアジアでも結構高いものですが、日本と同等もしくはそれ以上のまともな和食が日本国内より安く食べられる都市というのはバンコク以外世界中にないと確信します。タイは食料が自給自足できる数少ない豊かな国です。納豆であろうがいろんな種類がタイ国内で日本人用に作られています。バンコク市内では日本食が何百件もあります。 うどん屋も関東風、関西風、讃岐うどん専門店というように専門化されていますし、お好み焼き屋も関西風のものから本場広島風まであるのは驚きです。そういった点では和食がなければ生きていけないという御仁には非常に住み心地の良い所と言えるでしょう。


タイ人の気質(私の勝手な感想)

 最後にタイ人気質について私の勝手なそして無責任な感想を述べます。タイ文化は歴史的にも近隣地域の影響を大きく受けていますが特に西からのインド文化(クメール経由=現カンボジア)と北からの中国文化にはさまれています。儒教思想を根底に持つ中国人は基本的に勤勉で家族・一族の為に一所懸命働き 、お金を貯めるタイプ、一方インド文化はこの世はあくまで仮の世で来世を信じる世界観にたち、刹那的だが寛容とも言えるでしょう。この相反する文化がグジャ混ぜになった感じとでも言いましょうか。基本的に勤勉であると同時にええ加減なところも持ち合つといういわゆる人間味のあるところが日本人との相性の良いところだと思います。

 タイは民族的には1割程度が華僑で中国人との混血まで入れると半分以上とも言われています。インドネシアやマレーシアでは中国人に「あなたは何人ですか?」と聞くと必ず「中国人です。」と答えますがタイで同じ質問をすると「タイ人です。」と答えが帰ってきます。タイはアジアで中国人との融和が最も進んだ国と言えます。こういった様に民族やら文化やらが上手に複雑に絡み合ってタイ人気質が出来上がっているのだと思います。

 タイ人がよく口にする言葉でよく聞くのは、“マイペンライ”=「気にしない、全然大丈夫だよ。」 “マイミーパンハー”=「問題な〜し、ノープロブレム」 “サバーイサバーイ”=「気分がよい、気持ちいい、爽快、快適」。タイ人気質が非常によく表れている言葉です。老後をタイで過ごそうという日本人が多いほど日本人のタイ人気は根強いものがあります。その理由に美しい海岸線のリゾート地、豊富な物資と物価の安さ、美しく心が優しいタイ人女性(特に高齢者に優しい)、政治の安定と経済成長、整ったインフラ整備・・・数を挙げればキリがありませんが、それ以上に矢張りこのタイ人気質が日本人と非常に合うためだと私は勝手に思っているのです。そうです、ここは「微笑みの国、タイ」なのです。

永田 武  risonaga@samart.co.th   

 


 
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