● ようこそ!岡山朝日高校同窓会のページへ! ●
須田 哲史 (昭和50年卒)  千葉県在住
バーチャルな世界への入口を創出
略歴: 1979年(昭和54) 慶応大学法学部政治学科卒業
1979年(昭和54) 日本リクルートセンター(現リクルート)入社
         人事教育、進学ブック、就職情報誌、不動産情報誌・オンライン事業 等経験
1995年(平成07) ソフトバンク入社。出版事業部広告局局長
         『computer shopper』等パソコン誌の創刊に携わる
1997年(平成09) サイバー・コミュニケーションズ創立 創業メンバー
         (取締役就任後、営業・メディア・管理各本部、出資子会社の担当責任者歴任)
2000年(平成12) ナスダック・ジャパンに株式公開(上場担当役員)
2001年(平成13) 富士通総研の田中秀樹氏と「インターネット広告実践法」(PHP研究所)共著
         (AmazonにてITビジネス書籍売上ランキング2週連続第1位。第1四半期第4位を記録。)
2004年(平成16) 子会社インストア・コミュニケーションズ(流通に特化したプロモーション会社)創業
         初代代表取締役社長CEOに就任
         セブン&アイグループのロゴ開発、流通プロモーション、チラシ制作体制の構築にあたる。
2009年(平成21) サイバー・コミュニケーションズ取締役最高財務責任者(CFO)就任(〜2014年)取締役退任

私生活では、児童・生徒の見守り防犯活動が評価され、日本PTA会長賞、全国防犯栄誉銅賞、千葉県防犯県知事賞受賞。学校サポータ事業では、保護者仲間や卒業生とキャリア教育活動運営。
2015年優良教育団体文部科学大臣賞を受賞した。
 インターネットの黎明期に、ネット広告分野の一役を担い、業界の発展と共に成長、貢献できたことは、とても幸せな体験だった。スタートラインに、偶然、居合わせただけで、特別な才能や技術があった訳でもない。事業は爆発的に拡大したが、インターネット革命と呼ばれる超成長市場が背景だ。「才能はないが、強運だけはある」と公言して憚らない私だが、仲間と共に辿った道をお伝えする事が、皆様に少しでもお役に立つのであれば、幸いである。

 私が在籍したリクルート、ソフトバンクは、共にベンチャー企業。創業者の江副浩正、孫正義は稀代の起業家、名経営者である。「起業家」を「アントレプレナー」と言うが、今風な言葉で、自身を語れば、「イントレプレナー」。企業の中で、新規事業を立ち上げる「社内起業家」の走りだった。もちろん、起業家に必要な情熱、チャレンジ精神(前例にとらわれない開拓精神・行動力)は負けないつもりではいたが、ゼロから、いくつもの事業を起こしたお二人のような真の起業家の不屈の事業欲には、全く、およぶものではなかった。

 リクルートの当時の社是に、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」とあり、この行動訓を実践する風土があった。会社側に軸足を置くのではなく、顧客と個人に焦点を置き、主体的に自ら変化対応するという発想は、斬新で、こうした基軸を持って、仕事に臨めたことは、とても貴重な経験だった。

 中途採用の広告営業時代に、PC WEEKという米国のPC業界のタイムリーな話題を紹介する業界新聞に出会った。この頃は、日米間の情報のタイムラグも大きく、米国で発表された商品でも、日本に情報が届くのは、早くて1か月〜2か月後。日経新聞ですら掴んでいない日本進出の予定企業の記事などが、毎回掲載されていた。そこで、この新聞を購読し、こうした企業に連絡、営業をかけるチームを作った。すると、面白いように新規開拓が進んだ。この新聞を発行していたのがソフトバンク。その後、孫社長は、この出版元で、PC関連の展示会事業も行っていたジフデービス社を買収、最も、IT情報の川上の場で、事業のシーズやニーズを把握したのだ。その中で見出した宝物が、ヤフーだった。

 そんな時に、ソフトバンクの出版事業部の幹部にどうかという転職話を戴いた。役員との最終面接での口説き文句は、「これから、エジソンになる人たちと仕事をしないか」だった。私が、キョトンとしていると、「孫正義、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス・・・みんな、若いが、そのうち、エジソンになるから・・・」と話が続いた。 先日、ある中学校に招かれ講演を行った際、エジソンを知らない生徒が多かった。一方、孫正義、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブスの名前は、絶大。予言は的中した。

 ソフトバンクに転職した1995年は、PC業界にとって転機の年。Windows95が発売。一気にPCが家庭に普及した年だった。この1年だけで、PC専門誌を23誌創刊する真っ只中に放り込まれ、広告責任者・編集長・創刊誌責任者を兼務でこなした。超多忙なある日、幹部数人が、勉強会に呼ばれた。プロジェクターに映し出されたのは、インターネットの画面で、私が、初めて目にした時だった。孫社長から「各自、インターネットを活用したビジネスを考えて、提案を持ってこい。」との指示。この言葉には、一同唖然とした。なぜなら、まだPCは職場にも家庭にも、普及していなかったし、ましてや、ネットワークが繋がっていない時代。孫社長の自宅のネット回線利用料が月々40万円とのこと・・・利用環境もコストも、ビジネス検討に程遠い代物だったのだ。現場も、目先のWindows95の売り出しで忙しく、宿題のことはすっかり忘れていた。

 1996年の正月明けの初日、広告局の幹部3人、すぐに社長室に来るように連絡を受けた。「ヤフーに出資したので、4月からYahoo! JAPANをスタートする。広告をどう集めるか、すぐに考え、広告集稿体制を整えろ!」という孫社長の話だった。呼ばれた私たち3人は、ヤフーのことを詳しくは知らなかった。スタンフォード大の2人の学生(ジェリー・アンとデビッド・ファイロ)が創業した会社に巨額の投資をしたこと以外は・・・。
 すぐに、日本での広告集稿の展開を考えた。検索エンジンであるヤフーはあらゆる業種の商品・サービスの広告を集める事ができる。ここはNO.1広告代理店と手を組むことがベストと考え、すぐに電通に働きかけ、トップ会談をセットした。すぐに、ヤフーの広告集稿を支える会社の創設が確認され、翌月、日本初のメディアレップ「サイバー・コミュニケーションズ」の設立が決定した。

 会社は、ヤフーの隣の部屋に置き、6名の社員でスタート。創業メンバーの苦労は、相当だった。今では、笑い話だが、当時、専用回線を引くには、手続き・工事に時間と手間がかかり、最新のPCがあるのに、約1か月、インターネットを自社で見ることができなかった。仕方なく、隣のヤフーのオフィスにお邪魔して、空いている専用線を使わせてもらって、仕事を進めた。厳しかったのは営業活動。ネット回線の繋がっていない企業を訪問し、見たこともないヤフーを、ノートPCのデモ画面で説明、広告を売っていたのである。無謀なことだったが、これ以外の販売方法がなかったのだ。

 多くの企業は、ホームページを持っていなかった。自社でホームページを作成したというだけで、新聞記事になった時代。こうした企業を訪問し、広告案内すると、「ホームページ作成費だけで予算がなくなった。広告を出す余裕なんてないよ。そんな効果の分からないものに・・・」「大体、そのヤッホーって、何?」とけんもほろろだったのだ。
 そんな時、ある米国のIT企業だけは違っていた。「自らの次世代の果実の種は、自ら植える」意識で、「広告費用の5%以上をインターネット広告に当てて市場を耕せ」と本社から指示が飛んでいた。その話を聞きつけ、他の米国IT企業も、負けられないと予算を振り分けてくれた。この動きは、IT業界の拡大再生産に合致していた。自ら未来をデザインし、確実に先行者利益を獲得していたのだ。
 このような外資系IT企業の姿に感化され、日本のIT企業も広告出稿しはじめ、徐々に拡大。日本初のインターネット広告売上は、初年度目標予算を達成し、黒字化したのである。

 年度が替わっても、相変わらずIT企業の先行投資的な広告費だけで、様々な産業の広告が集まることは、夢の中の夢だった。問合せはあっても、受注に至らない。一般の商品・サービスを提供する広告主にも関心を持って出稿いただけないものかと悩む日々が続いた。こういう時は、まずは、事例作り。象徴的なトップクライアントに話題となるようなキャンペーンを行ってもらうことだと考えた。目をつけたのが、自動車業界。海外での事業展開で、広告のデジタル化にも関心が高かったからだ。中途半端な提案では、広告主の心は動かせないと踏んだ私たちは、ヤフーと広告代理店、広告主が三位一体となって動かせる提案を考えた。そんな思いに、業界最大手のT社は、新車の告知に合わせ、継続でテスト出稿を決定。また、H社は、伝説となった「Hを探せ!」企画で、その年の広告キャンペーンの話題をさらった。「Hを探せ!」は、ヤフーのトップ画面の 「Yahoo!」の「h」をわざと消して、「Ya oo!」と表記。画面上で、読者に「h」の文字を探させる旅に車で出かける・・・といった企画。最後にH社の頭文字の「h」にたどり着き、元のロゴに戻るというもの。



 ヤフーのロゴまで使って、こんな企画を実施することは今では困難だが、革新を起こそうという私たちの気概が、このような斬新な企画をも通せた時代でもあったのだ。
 こうして自動車業界を皮切りに、インターネットと親和性の高い業界から、事例は広がり、一般利用されていったのだ。

 ヤフーの成功に刺激され、起業家たちが、ネット広告市場に、参入するようになった。様々な発明や新しい発想、ビジネスモデルが提案される一方で、金儲け目当てで、詐欺行為の商売を始める者も出てきた。広告効果は、実際に表示される回数や、広告をクリックされる回数などで判断されるのだが、不正な掲載報告や、クリックを自らの会社で意図的に行う者が出てきたのである。そこで、業界の主要プレーヤー(メディア・メディアレップ・広告代理店、ネット専業代理店)を中心に、JIAA(旧:インターネット広告推進協議会、現:日本インタラクティブ広告協会)を設立。健全なネット広告の業界標準作りに着手した。

 各社の最前線で働いている20代、30代の人たちが、仕事の合間を縫って手弁当で参加。口角泡を飛ばしながら、業界スタンダードを作り上げていった。この時に作られたルールが、基本となって根付き、今の健全なネット広告作りに繋がっている。1兆円を超えたネット広告市場の社会的使命は大きい。その大変さは、技術革新によって、次から次へと、メディアもネット広告手法も、デバイスも変化していくことだ。安心・安全でさらに便利なネット広告のために、なお一層の業界努力は続いている。

 一つのステージを作ることは、このように一瞬一瞬の努力と結果である。これらの結果や成果を点と点を結びつけ、線にし、線となったものを、並べ替える、重ね合せることで変化が起こり、やがて大きな面=新しいステージが生まれる。起業の本質は、絶え間ない見えざる手を、人の手によって、丁寧に紡ぐ作業に他ならない。

 私が経験したインターネット革命は、リアルな実体のある世界に、誰もが、デバイス一つで入り込めるバーチャルなもう一つの世界の入口を創り出したようなもの。まだまだ序章に過ぎない。すべての人に、あらゆる可能性とチャンスを持ったインターネットの世界で、多くの若者に次世代の力を発揮させていってほしいと願うばかりである。