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同窓生の高校時代の想い出と近況(敬称略)

後藤順一 (昭和 48年卒)    香港在住

40余年ぶりの富士登山〜H24年夏〜

登山途中の写真

   「まさかまた登るとは思ってもいなかった。」

 42年前に登って、心の中では、もうたくさんだ、と思っていたが、なぜもうたくさんかは忘れていた。ただ、自分の趣味を「山歩き」と書くほど、山を登ることになったのは、まさに、朝日の一年生の夏に学校で富士登山に行ったこと、富士登山のために買った登山靴を、一回で使わんようになるなあもったいねえと思ったことから始まっている。しかも、息子たちがそこそこの年令になった時(そこそことは、14才と11才、今から十数年前です)に、家内の心配を無視して信州の山に連れて行ったのも私なのだから、この高校時代の富士登山は、私の人生だけではなく、私の血族の人生にも、影響を与えている。

 そして、今回、その血族たちが、日本一高い富士山にも登ってないなんてあり得ないから、この夏自分たちも登ってみたい、と言い出した。

 少し、不安もあった、が、息子たちに言われたなら、行かねばならない。何しろ、息子と直で話をする時間は、もう本当に少なく、もう山の時くらいしかないんだから。ということで、私は、「富士山のことは、お父さんはよーく知っとるから。」と、何ヶ月も前から、準備を始めた。

登山途中の写真

 東京から5合目までいくバス、ルートの設定、帰りの列車のアレンジ、そして、山小屋の手配もした。山小屋は、朝日の時に泊まった、ぼろぼろの、石をたくさん乗せて、屋根が飛ばされないように取りつくろったような、あの、太子館という8合目の山小屋にした。電話予約をしたとき、42年前に来たことがあると相手に伝えると、電話口で、その当時の者もいるが、既に自分に代替わりをしており、自分はまだ生まれる前だった、と言われ、そりゃそうだわと、42年前がいかに遠い昔なのかを感じさせられた。

 さて、当日。うれしくもいい天気で、吉田口五合目から、登り始め、最初少しくだり気味で、それから道が本格的な登りにさしかかったその瞬間、私は、あっと思い出した。私がなぜ、もうたくさんだ、もう来たくないと思っていたか、それを思い出したのだ。要するに、登ることが面白くなかった。 道は狭く、火山灰で、足元がややもすればずるっ、ずるっと滑る。 本当に歩きにくい。「草木も何もない、ゴミだらけ、こんなところはもう二度と来たくない」、42年前にそう思った事を、鮮やかに思い出した。ああ、だから来とうなかったんじゃ。来るんじゃねかった。昔の想い出がどんどんとわき出して来た。

 あの時、「前の人の足あとを自分も踏んで、一歩一歩上がれ」と何度も何度も同じことを厳しく言う人がいた。私がすこしはずすと、「後藤、ちゃんと前の人の足あとをふまにゃいけんよ」と言う。私はほんとにびっくりして、声の方を見た。だいたいが登る足元をじっと見ていないとそんなこと指摘できない。よくまあ見られてしまったものだ。知らない人だったが、登山靴だけは、私の新品の靴よりも高級な革製だった。山登りのプロに見えた。ツアーガイドさんかなとも思った。あとで、それが私の1年E組の担当ではなかったが、数学の谷口先生だということを教えられた。

その当時の太子館

 今回は、私は、谷口先生と同じような革の靴を履いて来た。それだからか、火山灰の歩きにくさはあるが、それでも前よりも楽かも知れない。どうも、道が全体的に広く、よくなっているようだし、昔あったような、5メートルに一つのゴミの山がなくなって、きれいになっている。これはいいぞ。そうやって、昔を思い出しながら登っていくと、8合目の太子館には、昼過ぎの2時半頃には着くことができた。

 太子館はきっと変わってないだろうなと、悲観的期待を膨らませて辿り着くと、なんと昔の面影が全くなくなっていた。あのぼろぼろの、世界の果てのような山小屋が、きれいな普通の山小屋に変わっていた。食事もそれなりに問題ないし、トイレもきれいだった。高校のとき、昼過ぎにつき、それからしばらくして、疲れて吐きそうになりながら晩ご飯は自分で持って来たまぐろフレーク缶とにぎり飯を食べ、外はまだ明るかったが、すぐに消灯時間で、先生たちは人が変わったかのように、有無を言わさず、たたみ一畳に生徒を4人の割合で横に寝かし、生徒は寝たのか寝なかったのかわからない状態で翌朝3時半頃出発した。

現在の太子館の外側

 今回は、ちゃんとたたみ一畳に一人。あの詰め込みは何だったのか、山小屋がただの金もうけにやっただけじゃねえかと、昔をなつかしく思い出しながら、太子館の人に、朝4時半の日の出に間に合うためには夜中の1時頃出ればいいか、と聞いたところ、太子館の人がとんでもないことを言い出した。「山頂でご来光を見るのだったら、夜10時半には太子館を出ないとだめ。いくつものツアーの何百人もの人が大体11時半頃ゆっくり登り始めるので、4時半の日の出の直前は、山頂の手前で大渋滞が起きる、だから、ツアーの後ろに着くと、山頂での日の出には間に合わない。絶対ツアーが登る前に登らなければいけない。」と言われたのである。

 というわけで、 我々は、言われる通り、10時半から登り始めた。登り始めたのはいいが、とにかく、その日の2時半に着いて、同じ日の10時半には、もう登り始めるわけだから、かなり疲れてもいるし、そんな早くから登っている人は逆に少ない。あたりはほとんど真っ暗。最初は、まだ気力もあるので、これだけ早く登り始めれば明日来光を山頂で見られることは間違いないなとか、うしろに何語かわからない言葉をしゃべっていたのはきっとチベット人だろうが、日本に住んでいるチベット人はラサが恋しくて、同じくらいの標高の富士山に登ってくるんだろうかとか、富士山は霊山といわれているがこんなに暗いところは霊が出て来ても見えないなとか、ばかなことを考えていたのが、本当に疲れて来ると、こんなまっ暗い山道がどこまで続くんだろうかとか、 昔はこんなにつらくなかったんじゃないかとか、息子たちはもう先に行ってしまって親のことをどう思ってるんだとか、とかなり頭がテンパルところまで来る。そしたら、息子たちとおぼしき人のかげが山道の上の方で、ヘッドライトを照らしてくれるので、おっ、親のことを心配してくれているんだ、こいつら、と少し疲れが取れたりしながら、やっと、山頂についた時の時間は朝2時半だった。

ご来光(下に見えるのは、山頂でのご来光に間に合わなかった人々)

 山頂に2時半について、汗を拭いながらすわっていると、全身に震えが始まった。要するに、山頂の夜明け前は異常に寒かったのである。まして、汗だらけなのだから、三人とも体の底から来る震えが止まらない。朝日のときは、太子館を出発してすぐのところで日の出になり、山頂についたのは8時頃だったので寒くなかった。だから、 十分な防寒具のことを考えもしなかった。それに、日の出のためにここまで早く山頂に来るのも予定外だった。それから日の出までの2時間がどれだけ長かったか。やっと日の出を見られた時にゃ、もうあなた、感激の嵐。そして日の出の後、オープンした山頂のお店のみそラーメンは感激を完全に越えていました。

 山から帰って来るとしばらくは、疲れきって、もう二度と山なんか行きたくないと思ったのだが、少し経つと、何となく、またなんとなく山の空気を吸いたくて、むずむずして来る。

 それもこれも、すべて、42年前の朝日高1年生の夏の富士登山と新しく買った登山靴から始まっている。私と血族の人生にこれほどまで影響を与えているとは、朝日高の先生は誰も知らないだろう。
 

 
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