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国内で活躍する同窓生(敬称略)
黒瀬 雅志(昭和40年卒) 東京都国立市在住

弁 理 士 と し て 3 0 年

インドの知的財産制度の調査のためインド知的財産局を訪問
 私が弁理士としての仕事を開始したのは1977年の秋からであり、今年でちょうど30年になります。事務所は東京都千代田区の丸の内仲通りに面した富士ビル内にあります。丸の内仲通りのビジネス街は、皇居二重橋前の近くにあり、明治時代にロンドンのビジネス街をモデルとして建設され、当時は丸の内赤煉瓦通りと呼ばれていたそうです。最近は、東京駅周辺の丸ビル、新丸ビルなどが次々と高層ビルに建て替えられ、雰囲気が大きく変わってきました。
 私は毎日、国立駅から中央線で東京駅まで行き、さらに仲通りを歩いて事務所に通っています。歩く途中、右手には皇居のお堀と二重橋が見えます。東京の中心部としては比較的樹木の多いところなので、季節の変化を楽しむことができます。

 私は大学で機械工学を学んだ後、企業に入り機械の設計を行っていましたが、日常業務で特許の世界に強い関心を抱き、弁理士試験に挑戦しました。弁理士試験に合格すると、通常は、特許事務所か企業の知的財産部で勤務することになります。私は特許事務所で仕事をする道を選びました。私が勤務する協和特許法律事務所は1908年に創立された古い事務所で、もうすぐ100周年を迎えます。

昨年11月に台湾で行った模倣品問題に関する国際会議
の参加者と.。 筆者は共同議長
 特許事務所における弁理士の主な業務は、特許、商標、意匠などの出願書類を作成し、特許庁へ出願する代理業務です。私が最初に担当したのは、新しく生まれた発明を発明者から聞いてその内容を理解し、特許を取得するための明細書を作成する業務です。特許を取得するには、その発明は今までに世界中どこにおいても知られていない全く新しい技術でなければなりません。最先端の技術に接することが出来るという、技術屋としてのおもしろさと、それを十分理解して、財産的に価値のある特許に形成していくという困難さにいつも直面しています。

 また弁理士の業務は、知的財産に関連する訴訟の代理、法律相談などもあり、最近はその業務範囲が拡大しています。私の業務も特許出願業務をベースにしつつも、裁判所での訴訟代理、技術開発のサポート、知的財産関連のコンサルタントと領域が広がり、現在は海外における知的財産権紛争処理業務が最も多くなっています。海外でも、とりわけ中国をはじめとするアジアでの知的財産権紛争案件の処理を20年近く行ってきました。
  
中国での模倣品(化粧品)摘発現場
小生も同行
 アジアにおける知的財産権紛争の処理で最も多いのは、模倣品の摘発です。その中でも中国における模倣品問題は、日本企業に深刻な問題になっています。基本的には、中国の代理人に依頼して法律の執行をしますが、その事前準備のため、たびたび中国に出張し、管轄の行政機関などへの説明、協力要請などを行います。北京とか上海のような国際都市ではなく、模倣品製造会社は中国の地方に所在するので、日本人観光客はまず訪れることのない、聞いたこともないような地方の都市に行くこともあります。

 中国では、地方の行政機関とのコミュニケーションを良好にするために、宴席が欠かせません。びっくりするような地元の料理と、白酒と称する50度以上の強い酒で接待し(接待され)、大騒ぎの宴会となります。最近、大都市ではこのような中国独特の宴会は少なくなっていますが、地方においてはまだ重要な交流手段です。アルコールがまわり、全く動けなくなって病院に担ぎ込まれたこと、ほとんど意識を失ってホテルに戻っていたことなど、今から思い出せば自分でもあきれるほどです。若かったことと、何でも食べることができ、誰とでも話しをすることができたということが、このような地方の中国の方々との交流を可能にしたのだと思います。

 「誰とでも話しをすることができる」ということは、簡単なようで結構大変なことです。出てくる相手は「背広を着た紳士」ではなく、おおよそ、そのイメージとは正反対の方々で、そもそも友好的な雰囲気ではありません。そのような方々と、最後は「友好、乾杯!」まで持って行かなければ、地方での効果的な模倣品摘発は困難でした。最近は、世界中の非難の下、中国政府の取り締まりが強化され、地方においても比較的模倣品摘発の実効が上がっています。

 日本政府の協力による、中国における知的財産人材育成
 セミナーでの講義(北京)

 もちろん、いつもこのような仕事ではなく、法律論を駆使して、理詰めで交渉することもあります。また、交渉決裂になり訴訟を提起することもあります。日本人であるので、直接の代理人にはなれないとしても、紛争の処理が適切に行われているか否かを監督できる法律知識と経験を要求されます。このために、関係国の知的財産関連法の勉強、さらには歴史、文化などの調査研究が欠かせません。
 アジア諸国における知的財産関連の情報は、20年前は極めて少なく、現地調査も繰り返しました。天安門事件直後の訪中、スハルト大統領が辞任するきっかけとなったジャカルタ暴動直後のインドネシア訪問は一人で行ったので、かなり緊張したことを覚えています。
 また、アジア諸国で開かれる国際会議にもよく出席し、アジアの知的財産権専門家との人的ネットワークを作りました。アジア諸国の知的財産権事情をまとめた「アジア知的財産戦略」(ダイヤモンド社、1994年12月出版)の原稿は、出張先のホテル滞在中、空港での時間待ち、娘の水泳競技大会の応援の合間の時間などをも利用して書いたので、その本を見ると当時の逼迫した生活を思い出します。

毎年中国の地方で行っているセミナー(壇上左端が筆者))

 子供の頃は病弱でよく学校を休んだものですが、弁理士としての30年間は一度も大きな病気はせず、比較的元気に業務を続けることができました。健康である限りこの業務を続けていくつもりですが、今後は当面の研究課題である「東アジア経済統合と知的財産戦略」に取り組むと共に、アジア諸国における知的財産専門家の育成に協力したいと思っています。
 中国における人材育成協力は、1991年から開始し、すでに16年間継続しています。中国の地方人民政府と中国特許代理人協会との協力により、毎年中国の各地において、セミナーを開催し、また地方の裁判所、行政機関などとの意見交換を行っています。
 最近では、アモイ(福建省)、佛山(広東省)、成都(四川省)、武漢(湖北省)でそれぞれ実施し、今年は黒龍江省人民政府の協力によりハルビンでセミナーを行う予定です。
また、併せて、中国からの研修生の受け入れにも協力しており、私の勤務する協和特許法律事務所でも多くの中国の代理人が研修をしました。

 その他、ベトナム、メキシコ、ペルーなども含むAPEC諸国からの研修生への講義の要請などもあり、法律のより深い研究の必要性を感じ、54才の年になって一橋大学大学院・国際企業戦略科に入学し、夜の時間を利用して法律の講義を受け、ゼミに参加しました。現在は、東京理科大学・専門職大学院(知財戦略専攻)の客員教授として、週2回の講義を担当しています。
 
 丸の内仲通り
毎朝この通りを歩いています
 弁理士としての30年間は、丸の内仲通りをホームベースとして動き回ったような時代でした。機械エンジニアとして社会人の一歩を始めた私が、法律に興味を持ち、弁理士の仕事を選択したことは、時代環境にも恵まれたこともあり、私には幸運でした。またアジアを主要なターゲットとして、大変おもしろい仕事をすることができたと思っています。 まだ課題を山ほど抱えているので、現役からの引退は遠い将来になると思っています。

 弁理士業務の一部を紹介したに過ぎませんが、知的財産制度に関心がある方、エンジニアで法律職を目指す方などにとって、多少なりとも参考になれば幸いです。


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