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三竿 修一 (昭和34年卒)  兵庫県在住
木造をデザインする 美術部の仲間に励まされて
略歴 : 児島郡灘崎町(現岡山市南区灘崎)出身    神戸大学工学部建築学科卒業
 有限会社ミサオケンチクラボ設立 同社会長 【一級建築士、建築設備士】
高校2年の頃
 私が高校に入学したのは昭和31年ですが、必ずしも楽しい高校生活とはいえませんでした。入学した時は周りを見渡しても誰一人知る人がいない孤独な状態でした。
 学区外からの入学が一定枠の範囲で許されるようになった最初の年で、試しに受験させられて入学したものですから中学校時代の友達が一人もいませんでした。周りの連中が中学時代の友達としゃべっているのが羨ましく思われたものです。

 そんな劣等感と孤立の中、救ってくれたのが芸術の時間でした。1年の1学期は三つの部門 音楽を中山先生、書道を前衛の河田一丘先生、絵画を坂手先生に指導を受けました。どの部門も魅力的でしたが、中学時代から描いていたこともあって2学期からは絵画を専攻しました。

 部活では美術部に入り、上級生の絵を見たり、時には演劇部の先輩も入っての議論を興味深く拝聴していました。といいながらも部室は美術教室兼用なので、皆が集まるのは昼の時間と放課後でした。

 教室には白い石膏像や木製のイーゼル、描きかけの先輩の絵、準備室を覗くと坂手先生の習作や制作中の石膏像や絵画の本などがあり、田舎の中学時代にはなかった環境に胸の高まる思いでした。

3年の文化祭で
 この頃の絵画は印象派から現代絵画への変換期に差し掛かっていたものですから、そんな議論がなされていましたが田舎育ちの自分にとってはチンプンカンプンと言った感じもしました。それでもその雰囲気に誘い込まれている自分でした。
 文化祭の時には、新しい額縁を造ろうということになって、額縁屋を見学したこともありました。絵そのものは自宅で制作したものを持ち寄り、上級生や下級生も混じって皆で貶し合ったり、褒め合ったりしてワイワイガヤガヤ、部室の隅っこで修正して新しく作った額縁に入れ陳列。


 進学は迷った挙句、創造性を活かせる建築をめざして大学を選びました。ここでの部活も高校時代と同様美術部に入り、みんなで絵画論などを論じあいながら毎年デパートや会議場を借りて展覧会を開いていました。寮が学校と同一敷地内だったもので随分描き込み出来ました。美術専攻科の連中もいていい刺激になり、「県展」に入選出来る程になりました。次の年、高校の美術部の後輩が入部してきたのには驚きました。今の妻です。色々相談相手などしているうち、数年後恩師の坂手先生に媒酌をお願いして結婚することになったのが思い出されます。京都工繊大・大阪市大との3大学展を持ち回りで開催もしていました。大学のOB展は今も続いています。
OB展出品作
樹間95(油彩) 端材挽歌(スギ端材) 桜の舞(和紙モビール)


 その後卒業して設計事務所で修行しました。この時期高度成長の真っ盛りで、列島改造論が喧伝された時代でした。建築界はコンクリート造の全盛時代で、大学では木造を教えなくなっていました。かつての木造の学校や公会堂などはほとんどの建物が取り壊されてコンクリート造りになりました。映画「超高層の曙」が作られ、首都圏では街がどんどん高層化に向けて動き出した頃です。

 大阪万博のあと、大手事務所を辞し、次の事務所では山間部の公共施設の整備等地道な経験を重ね、自分で設計事務所を設立して建築の設計を始めたのはオイルショック後40歳過ぎてからでした。
 都市再開発等大規模なものにも協力しましたが、その限界を痛切に感じて、次第に自然志向のデザインに傾いていきました。経済成長に翳りが見え出し、街中の建て替えは高層マンションが主流になって、町並の味気無さが増してきました。エネルギー・資源・環境・健康など周りを取巻く様々な問題が頭をもたげ、設計にあたっても、これらのことを配慮しなければと思うようになりました。

 そこで、次のような方針を立てました。
  1. 建築空間は人にとって優しく、健康的であること。
  2. 多様な空間ニーズに応えるためには多様な材料工法が用意されるべきこと。
  3. 使用材料はできるだけ資源として枯渇することなく回復可能なものを採用すること。
    また再利用や転用が可能で、製造過程、使用中、廃棄過程においても有害でないこと。
  4. 出来上がってくる建築はうまく周りの風景造りに寄与すること。

集成材使用の展示場
 建築した建物も時代の流れで当初の目的にそぐわなくなることがあります。その場合に建て替えるのではなく、リノベーションしてリユーズすることで省資源・省エネに繋げる方法だと考えて、その結果次 第に木造の建築を主体に活動するようになりました。

 大学時代日本建築を探訪したり、30歳代ダム湖に水没する古民家の解体移築に携わったことがベースにあるのかもしれません。また、帰郷して故郷の山の美しかった赤松林が虫害で全滅し、荒野に変わり果てたのを見た強烈なショックが木や山に引き寄せたのかもしれません。山間部の町の施設を設計していたことも山への親近感を生み出してくれたかもしれません。

 1995年に発生した阪神淡路大震災では木造もコンクリート造の建物も多くが倒壊し、その撤去作業は粉塵舞い上がる壮絶なものでした。その後の復興状況を見た時、木造での復興はまったく見られず殆んどが住宅メーカーの建物で埋め尽され、町並みは全く変わってしまいました。復旧を急ぐあまり、工業製品だけでの再建が強行されました。真剣に人間味あふれる町並みを復活させなければと強く思いました。

木造の体育館
 70年代後半には、今まで木造に冷淡だった行政も徐々に目を向けるようになりました。それは皮肉にも建築を統括する国交省ではなく、山林を維持していく林産の分野を取り仕切る農水省の息長い努力だったのです。
 構造改善事業の一環でモデル木造事業を始め啓発に取り掛かりました。文科省もようやく校舎の木造での建築を認めるようになり、普及への道が少し開いてきています。地震に対する耐震性や火災に対しての耐火性に対する研究も進んできています。しかし、木造不信の考えが長過ぎたこともあり、一般にはなかなか浸透しません。

 私の木造への取り組みは単に住宅だけでなく、公共の建物や民間の店舗等にも及びました。主に近畿圏の建築で、地元の木を使うことが多いのですが美作地方の製材所のお世話にもなることもありました。
 準耐火構造に認められた集成材を使用した展示館や、地元産の天然木材と鋼棒を組み合わせたハイブリッドトラスで耐火性能を検証した体育館など新しい木造技術にもチャレンジしてきました。木造建築が趣味的なものに終わらず、世の中に定着することを願っています。
 取り敢えず100年木造を目指しています。しっかりした木造は法隆寺のように千年を超えて現存することもできるのです。

木の展望台 木のブリッジ
 その一方で、鴨長明が「方丈記」に記しているような移動家屋も木造の捨て難い魅力です。

 木の優しさを活かし、山林の再生を促す健康的な木造を依頼主に理解して貰いながらの設計活動です。

 木材は健康にも優しく、工業製品に無い落ち着きと安らぎを与えてくれます。年月を経て微妙に味わいを増してくるのも魅力です。木を伐採したあとの山も植林してやれば数十年後には再び資源として成長してくれます。実際に生えている山を見に行って木を手に入れることを勧めている仲間もいます。


 とはいえ、出来たものが魅力的でないと意味が無いし、耐久性の点でも魅力を持続させるためには日頃の手入れが必要です。この長短織り交ぜた木造の魅力を発揮するには依頼主との信頼関係に基づく二人三脚が必要です。悩ましいけれども、面白い設計の対象物を見つけたと喜んでいます。

 幸い、こういった考えに同意してくれる若い人々も増えてきつつあり、自分の息子もその一人です。
 全国的にもこういった流れが増え、旅先で出来栄えのいい木造を見るのが楽しみです。
 仕事を通じての経験が、今も続いているOB展へ出品する作品にも影響しているかも知れません。

 これら建築のデザインは美術部時代に啓発された色んな思考と、それを形にする試行力が役に立っているのだと思います。いい建築はいい風景を作り出し、ふるさとづくりに貢献すると信じています。

 若い人たちの活躍を期待しています。



木造建築の事例 と 主な受賞歴など

 1987年 丹波年輪の里 木造平屋・2階建(一部大断面集成材)14棟   延べ2,048u 兵庫県
     林野庁「モデル木造事業」として採択(1987)
     日経アーキテクチュア特集「新木造夜明け前の風景」に掲載(1987)

 2000年 あけのべドーム「森の館」木造ハイブリッドトラス 平屋1、296m2  兵庫県
     木材利用推進協議会優良木造審査で林野庁長官賞受賞(2000)
     日経アーキテクチュア特集「身近な材で作る新木造」に掲載(2000)
     兵庫県人間サイズの街づくり賞(建築部門)受賞(2002)
     NPO木の建築フォラム第1回「木の建築賞」大賞受賞(2004)

 2004年 「あららぎ学童センター」木造 平屋建て99.4u 兵庫県
     林野庁「先駆的木造施設」採択(2004)